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【Testament】ブリテンの「戦争レクイエム」他、大注目の全4タイトル

Testament

最新情報追加!
名門レーベル、“Testament”より最新の4タイトルをまとめてご紹介。

ブリテンの大作「戦争レクイエム」の世界初演(World premiere performance)の貴重な音源と、1962年8月のザルツブルク音楽祭において、3人の巨匠指揮者がベルリン・フィルを指揮した3タイトル。
いずれも正規初CD化(Previously unissued recording)となるファン注目のラインナップです。

※詳細なデータなどは、随時、アップしてまいります。

まずは、ブリテンの自作自演による「戦争レクイエム」!
1962年5月、コヴェントリー大聖堂(Coventry Cathedral)で、バーミンガム市響を指揮した“世界初演”の音源が初CD化!
※初リリース
※日本流通商品のみライナーノーツの日本語対訳付き
P.ピアーズ、H.ハーパー、F=ディースカウら歌手陣も豪華。
この「戦争レクイエム」は、1962年5月に建立されたコヴェントリー大聖堂の献堂式を行うために教会からの委嘱を受け作曲された作品。旧大聖堂は第二次大戦で破壊されているという事実も含め、歴史的にも重要な演奏会の模様を聴くことができ、今回のCD化は大きな価値を持っています。収録合計時間…80.50。
ちなみに、ネルソンス指揮による「初演50年記念演奏会」ライヴ映像が先頃、DVD&Blu-ray化され話題となりました。 

 

Testament

【曲目】
ブリテン:戦争レクイエム
【演奏】
メレディス・デイヴィス(指揮)
バーミンガム市交響楽団
ベンジャミン・ブリテン(指揮)
メロス・アンサンブル
ピーター・ピアース(T)
ヘザー・ハーパー(S)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)
コヴェントリー祝祭合唱団
ストラトフォード聖トリニティ教会児童合唱団
【録音】
1962年5月30日、コヴェントリー教会(モノラル)

Benjamin Britten: War Requiem, Op.66
【演奏】
Peter Pears · Heather Harper · Dietrich Fischer-Dieskau
Coventry Festival Choir · Boys of Holy Trinity, Leamington and Holy Trinity, Stratford
John Cooper organ
City of Birmingham Symphony Orchestra
conducted by Meredith Davies
Melos Ensemble
conducted by Benjamin Britten
【録音】
World premiere performance recorded in Coventry Cathedral, May 1962
Previously unissued recording

巨匠カール・ベームが、1962年8月、ザルツブルク音楽祭において、ベルリン・フィルを指揮した2枚組!
コンサートマスターは、この時、40歳過ぎだった名手ミシェル・シュヴァルベ。
モノラル収録ながら、ベームの十八番とする作曲家の名作が3曲、取り上げられており、大注目のCD化。モーツァルトの第40番、R.シュトラウスの「ツァラ」、そして、マーラーの「亡き子」では、F=ディースカウが登場!

1960年初頭のザルツブルクでの(オペラ、コンサート、リサイタル)音楽祭に思いを馳せると、その強い歴史的意義を思い起こさずにはいられない。この地が生んだ大天才モーツァルトへのオマージュとして1920年代に始まったこの音楽祭は、オーストリア=ドイツ系の作曲家であり指揮者であるR.シュトラウスの名前を世界に知らしめた経緯もある。1962年のザルツブルク音楽祭は4つのモーツァルト・オペラ作品を取り上げ、そのひとつがカール・ベーム指揮、ギュンター・レナート演出の《コジ・ファン・トゥッテ》であった。通常と違って、シュトラウスのオペラは含まれていなかったが、ジェラール・スゼー、エリーザベト・シュヴァルツコップそしてディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが「リーダーアーベント」と題したリサイタルで歌曲を取り上げた。それ以外では、8月19日にベームとベルリン・フィルが演奏した《ツァラトゥストラはかく語りき》が、この年のフェスティヴァル唯一のR.シュトラウス作品である。このコンサートでの選曲は、順にモーツァルト、マーラー、R.シュトラウスとなっており、音楽史をそのまま体感するような配列となっている。
1906年、同じザルツブルクで現在の音楽祭の前身にあたるモーツァルト音楽祭をソプラノ歌手リリー・レーマンが企画した。ここでは、マーラー指揮による《フィガロの結婚》が上演されている。同じ音楽祭で、R.シュトラウスは当時ほとんど忘れ去られた作品ではあったが自身が大変敬愛していた《コジ・ファン・トゥッテ》を披露している。
その当時の亡霊が60年代にもまだ出現していて、演奏スタイルにも聴衆の捉え方にも影響を及ぼしていたと言える。お気に入りのレコードの演奏と比較するためにザルツブルクのコンサートに出かけるような浅はかな聴衆が少なからずいたのだ。そのレコードがコンサートで演奏する当のアーティストであることもあった。カール・ベームが懸念していたのは、そういう雰囲気だった。シュトラウス演奏の使徒として知られ、ザルツブルクの聴衆が待ち望んでいたジョージ・セルですらそんな状況だったのであるから、ベームはある種、異邦人として見られていたのである。1962年9月、この年の初頭にベルリンで制作されたベームのモーツァルト交響曲第40番のレコードがドイツ・グラモフォンより発売された。「強く、率直なモーツァルトで楽しめる。」グラモフォン誌でエドワード・グ
リーンフィールドはこう書いている。「ただ、少々印象が薄く記憶に残らない。」ザルツブルクでのベームを毎年熱心に聴き続けていたグリーンフィールドであるから、この「印象が薄く記憶に残らない」というのは、故郷でコンサートとして演奏されたモーツァルトからの影響を受けていたかも知れない。ソリストのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウはこの晩のことを鮮明に記憶していた。彼の記憶にあるサウンドは、”もうひとりの楽壇のスター”を生み出したばかりのベルリン・フィルのものとは大きく異なっていて、「より正確」だった。(”スター”が誰を指すのかわからないのが歯がゆいところである。カラヤンは最も有力な候補ではあるが、1962年段階ではこの作品をベルリン・フィルとは演奏していない。)
フィッシャー=ディースカウはザルツブルク音楽祭に26歳でデビューしており、その時はマーラーの「さすらう若人の歌」をフルトヴェングラーと共演している。(1951年)この組み合わせでは、翌年チクルスも録音している。フィッシャー=ディースカウが「亡き子をしのぶ歌」を録音したのは、1955年ルドルフ・ケンペとベルリンで行ったものが最初である。その時、ケンペの解釈には”感傷と自然な流暢さ”が足りないと思ったという。シュトラウスの伝記作家であるマイケル・ケネディは後にこう記している。「この歌唱、ああ、この歌唱だ!第2曲中の”おおその瞳!(OAugen!)”と繰り返すところは、父親が子供の瞳を思い出すところだが、切々とした憐みを持って歌われる。この歌唱は我々にこの種の悲劇を思い知らさずにはおかない。」ケネディのいう「思い知らさずにはおかない」とは的を射た表現である。フィッシャー=ディースカウも後に、「亡き子をしのぶ歌」を演奏するにあたり最も難しいのは精神的なところだと語っている。まさに、マーラー自身が直面した耐えきれないほどの悲しみの部分である。
マーラーが題材として子供の死を取り上げたことに対し、妻アルマは激怒した。確かに、この曲は神意に逆らうような雰囲気がある。リュッケルトが2人の子供を亡くしたように、マーラーも娘マリアを4歳の時ジフテリアで亡くしている。しかし、1901年、この作品に着手した時、マーラーに子供はいなかった。この作品の作曲動機としては寧ろ幼少期に兄弟姉妹を亡くした記憶が影響している。もちろんこうした経験も耐え難いものであったに違いなく、深い悲しみを美化するようなことはなかったにしても、1901年までの間に時間とともに音楽の中に浄化されている。
この作品のもうひとつの難所は、歌手に膨大な記憶量を要求する点である。リュッケルトが修正を繰り返した言葉の連なりは一瞬たりとも気が抜けない。フィッシャー=ディースカウは、声楽パートと同じくらいオーケストラ・パートに精通していなければこの作品を真の意味で習得することはできないと述べている。言うまでもなく、彼自身は音楽の内面を見る慧眼を持っており、ベルリン・フィルの熱烈でありながら繊細な演奏とベームの音楽の多様な要素を撚り合わせる技術の高さを見抜いていた。これらがあいまって、この演奏が後の権威者達にこぞって称賛される所以となる。
1894年、オーストリアのグラーツに生まれたカール・ベームは、音楽家としてのキャリアをブルーノ・ワルターやR.シュトラウスの傍、ミュンヘン国立歌劇場でスタートさせた。理論的で、バランスがとれていながら巧緻で多用な彼独特のモーツァルトの演奏スタイルを確立させたのはこの地である。シュトラウスは、特に理想的なテンポ感を追求した。その上でモーツァルトの音楽を微調整し、鮮やかにそして正確に表現していく方法を学ぶことが、オペラ作品、交響曲作品ともにモーツァルトのレパートリーを拡大していく基礎となった。
シュトラウスとベームの近い関係は、個人的な相性というよりは偶発的な事象だったといえる。ドレスデン国立歌劇場(1934-43)とウィーン国立歌劇場(1943-5)の総監督時代、ベームはシュトラウスのマントの裾が目の前にある状態だった。1935年ドレスデンでは、彼の本拠地でシュトラウスに対峙する。オーケストレーションのさらなる簡素化が論じられ、その結果はベン・ジョンソン原作シュテファン・ツヴァイク台本の「無口な女」に聴くことができる。1938年には「ダフネ」が続いた。(この作品はベームに献呈されたものだ。)1944年6月にはシュトラウスの80歳の誕生日を祝うコンサートが企画されこれを指揮したのもベームだった。この催しで、若きイルムガルト・ゼーフリートが作曲家役を務めた、今や伝説ともなった「ナクソス島のアリアドネ」が上演された。
シュトラウスは「ツァラトゥストラ」を完成させた1896年8月時点で32歳だった。彼の目的は、人類の起源からの宗教や科学的進化を含む様々なフェーズをニーチェの狂詩曲風の散文詩に表れる超人を通して音楽で追跡するというものだった。シュトラウスはニーチェの「ツァラトゥストラ」を挑発的に置き換えるようなことはしていない。ぎらついたオーケストラ曲の駄作ととらえる人もいるようだが、多くはそうは思わない。実際、1958年のベーム/ベルリン・フィルによる「ツァラトゥストラ」の録音こそがシュトラウスの熱狂的ファンを生み出した。音楽学者ウィリアム・マンがグラモフォン誌のコラムでこの作品を積極的に擁護している。「ツァラトゥストラは公にはそれほど頻繁に演奏されないが、この理由を特定するのは難しい。最大のクライマックスが冒頭の日の出のセクショ
ンに現れる。“喜びと情熱について”ではシュトラウスの最も栄光に満ちたエキサイティングなメロディーが聴ける。“舞踏の歌”が正確に演奏されればその爽快さははかり知れない。そして、コーダ。ツァラトゥストラが山に戻ってくる部分はなんと美しく独創的であろう。確かに構造上の脆弱性が感じられる部分もあるが、オーケストラから神々しいばかりのサウンドを引き出し、熟練した指揮者に至上の悦楽を与えてくれる作品であることは間違いない。」
この作品の最後のセクション、“真夜中を告げる鐘”が鳴り響いた後には、シュトラウスは人間と自然は非常に近くにありながら痛ましいまでに異なった存在であることを表現している。この悲しい結論は後の環境保護推進の考えを先取りして警鐘を鳴らしている。だからといって、指揮者がこの作品の演奏で大喝采を得るのがたやすいということでは決してない。しかしながら、そのようなことをカール・ベームが考慮に入れたとは思えない。ベームや彼の率いる音楽家たちにとってある意味、悲壮感すら感じさせるプログラムを持ってして、ザルツブルクの音楽として印象深い一夜を築き上げたのである。
©RichardOsborne,2013
訳:堺則恒
(Testament)

【曲目】
モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550
マーラー:亡き子をしのぶ歌(※)
R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》 Op.30(+)
【演奏】
カール・ベーム(指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)(※)
ミシェル・シュヴァルベ(Vn)(+)
【録音】
1962年8月19日、ザルツブルク祝祭大劇場(モノラル)

Disc 1
Wolfgang Amadeus Mozart: Symphony No.40 in G minor, K.550 27.59
Gustav Mahler: Kindertotenlieder 23.58
Disc 2
Richard Strauss: Also sprach Zarathustra, Op.30 33.25
【演奏】
Dietrich Fischer-Dieskau
Karl Bohm
Berliner Philharmoniker (Michel Schwalbé Konzertmeister)
Previously unissued recording

巨匠カラヤンによる絢爛たるヴェルディ:レクイエム!
こちらも1962年8月、ザルツブルク音楽祭におけるライヴ音源。
50年代後半以降のザルツブルク音楽祭は、正にカラヤンによる“帝王時代”であり、ベルリン・フィルが参加するようになり、カラヤン主導の下、祝祭大劇場が1960年に完成しています。順風満帆なカラヤンがベルリン・フィルを指揮したヴェルディであり、L.プライス、G.シミオナート、G.ザンピエーリ、N.ギャウロフと歌手も超一流なメンバーで固められ、合唱はウィーン楽友協会合唱団と万全。収録合計時間…81.37。

ヴェルディの「レクイエム」はオーストリア=ドイツ楽壇の歴史上、興味深い位置を占める作品である。この作品は、ヴェルディを得意とする多くの指揮者の中でも際立った地位にあったヘルベルト・フォン・カラヤンの人生とキャリアにおいても同様に重要な位置にある。
初演当初、この作品の評価は定まらず、1874年5月、ミラノのサン・マルコ教会で行われた初演の後、熱烈なワグネリアンでもあったハンス・フォン・ビューローはこの作品を「聖職者の衣をまとったオペラ」と皮肉った。このエピソードは、「レクイエム」という作品そのものというよりは、19世紀半ばの確立されたドイツ楽壇の他を見下すような権勢をよく物語っている。だからといって権威達の見方がそのまま一般的な意見とは言えない。1875年5月のロンドン初演での評価は冷淡なもので、立腹したヴェルディはロンドン滞在を早々に切り上げたが、翌月のウィーンでの演奏会は打って変わって大評判となった。皇帝フランツ・ヨーゼフは3回開催された演奏会すべてに出席し、その後で私的な勲章をヴェルディに与えたほどだった。これは、ヴェルディにとってドイツ語圏における最初の栄光であった。この事態を受けて、オーストリアとドイツのカトリック圏では、ドイツ楽壇の権威がこの作品に対する評価を修正しはじめた。伝統的ローマ教会の様式と“ドイツ的”ポリフォニーに熟達している点がことさら称賛された。
一方、若き日のヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン(出生時のフルネーム)は1920年代初めにはザルツブルク・カトリック教会ですでにこの作品と出会っている。この頃にはこのレクイエムは音楽史上の重要作品として認められていた。しかしながら、この作品がザルツブルク音楽祭で演奏されるようになるのは、カラヤン自身が1949年8月に祝祭大劇場で実演した以降のこととなる。この時は大絶賛された。ただ、当時のザルツブルクの教会音楽の最高権威だったヨーゼフ・メスナーは演奏会もその後の大絶賛も容認しようとはしなかった。メスナー自身、毎年音楽祭の折、ザルツブルク大聖堂で行われていた“宗教音楽のコンサート”で、ロッシーニの「スターバト・マーテル」やヴェルディの「聖歌四篇」を演奏したことがあったが、カラヤンの祝祭大劇場での演奏は世俗化を促す不穏な活動であるとみなしていたのである。
カラヤンがこのレクイエムを初めて指揮したのは、1933年ウルムにて若き副カペルマイスターとしてであった。オケの力量は限られていたが、音楽上の“大胆で劇的な急転”が求められた。カラヤンがアーヘンに移った1934年、アルトゥーロ・トスカニーニがナチスによって暗殺されたオーストリアの首相、ドルフースの追悼コンサートをウィーン国立歌劇場で行い同曲を取り上げた。こうしてレクイエムはオーストリア=ドイツの音楽史の潮流の中でも確固たる地位を占めることとなった。
レクイエムは1935年、カラヤンが27歳という若さでアーヘン歌劇場の音楽監督に就任した後、最初にプログラムに取り上げた合唱作品だった。この時になって、カラヤンは自分の裁量で音楽家達を招集することが出来るようになった。テオドール・レーマン率いるアーヘン大聖堂聖歌隊は世界的名声を得ていたし、アーヘン歌劇場の合唱指揮も新進気鋭のヴィルヘルム・ピッツであった。レクイエムは、4声部の卓越したソロなくしては成り立たない。妥協を許さなかったカラヤンは、ベルリン国立歌劇場からソリストを招集した。ゲルトルート・リュンガー、ヘルゲ・ロスヴェンゲ、クレメンス・クラウス夫人のヴィオリカ・ウルスレアクが告示されたが、ヴィオリカは後に辞退している。
演奏はアーヘンの最も権威のある評論家ヴィルヘルム・ケンプ博士により評論された。「カラヤンの指揮法は、あらゆる場面において細やかな指示を出すと同時に独特な内面的没頭により音楽を具現化するという方式をとっている...カラヤンはこの作品を壮大に威厳を持って演奏した。スコアに対しては挑戦的だったが、しなやかさと快活さを保っていた。歌手陣を伴っていたが、どの瞬間にも彼らが貢献できる最大限をそれぞれが思うように歌うことを許していた。」1962年ザルツブルクでもその演奏スタイルはほとんど変わっていない。
ひとりのカトリック信者として、そしてこのレクイエムの中では非常に感動的に表れる人間の声を愛する音楽家として、カラヤンは本質的には祈祷の音楽としてのアプローチをとっている。だからといって、潜在的なオペラ的要素をも失っていない。彼のキャリアの初期には、現代ではバッハの受難曲の舞台で行われるような“舞台効果”への興味を示していた。1948年ウィーンでは、一人ではなく二人のソプラノを起用した。リューバ・ヴェリッチがこの作品のメイン・パートを歌い、華やかな声を持つエミー・ルースが後方のギャラリーから“レクイエム・エテルナム”を歌った。1958年、指揮者でありトスカニーニの弟子だったマッシモ・フレッチャの兄弟であるヴィエーリ・フレッチャがこのレクイエムをザルツブルクのフェルゼンライトシューレ劇場にてギリシャ悲劇の様な演出で上
演することを提案した。カラヤンはこの提案を受け実演したが、大成功とは言えず、ソンエリュミエール(音と照明を駆使したスペクタクルショー)かのようだと批判を浴びた。
それでも、ギリシャ悲劇のテーマは忘れられなかった。1965年9月のアテネ・フェスティヴァルの一環として、カラヤンはエピダウロスの古代ギリシャ劇場でこのレクイエムを演奏している。ロンドン・タイムズ紙は「ヴェルディ自身、日曜日の夜のイベントで彼のレクイエムを聴くことを人生の中でも最良の経験と位置付けていたかも知れない。午後8時、空は黒いビロードのようで、風はそよぎもしない。カラヤンが指(この時は指揮棒を用いなかった)を上げるやいなや“レクイエム・エテルナム”のささやくような冒頭が始まった。エーゲ海の悠久の歴史とたそがれの美しさが演奏にえも言われぬ趣を加えた。まさに神に捧げられた音楽というのがふさわしく、通常のコンサート・ホールでは味わえない感動であった。」とレポートした。
カラヤンはキャリアの後半においても、このレクイエムを彼のキャリアの節目で数多く指揮している。重病から復帰した年、1976年のザルツブルク復活祭音楽祭でもこの作品を取り上げている。歌手陣の中でも特にモンセラート・カバリェの卓越したブレス・コントロールはカラヤンさえも驚かせた。そして、レクイエムは1989年の死の直前、ベルリン・フィルを指揮した最後の作品でもある。
興味深いのは、LPが1972年以降制作されていないことである。1967年にすべてのオフィシャルな記録の中でも最高の映像を残したにも関わらずである。この演奏はミラノ・スカラ座で撮影され、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーにより監督された。ソリストとしてはレオンタイン・プライス、ニコライ・ギャウロフに加え、まだ無名であった若き日のルチアーノ・パヴァロッティが参加している。もちろん、1949年から89年の間には、多くの放送音源が残され、そのうちいくつかはリリースもされている。その中でも、今回の初出音源は他の録音より興味深い点を持っている。
ヴェルディの音楽はザルツブルク音楽祭でも時折取り上げられてきた。トスカニーニの1936-37年の「ファルスタッフ」の演奏を忘れる人はいないであろう。この時は、カラヤンもリハーサルに参加している。しかしながら、ヴェルディのオペラ作品群が、イタリア生まれのイタリア人歌手、もしくはイタリア的なスタイルを熟知している歌手達を起用して演奏されたのは、1957年にカラヤンが音楽祭総監督に任命されてからのことだ。1962年のレクイエムの演奏では、唯一バスだけがロシア人のニコライ・ギャウロフ(1929-2004)を起用し、彼にとってはザルツブルク音楽祭デビューとなっている。対照的に、ジュゼッペ・ザンピエーリ(1921-81)は1957年以来変わらず出演している。当時音楽監督であったウィーン国立歌劇場の“専属テノール”であり、イタリア・オペラへの出演を続けるようになる前には、カラヤンによるベートーヴェンの「フィデリオ」でフロレスタンを演じザルツブルクにデビューしている。偉大なるイタリア人メゾ=ソプラノ歌手、ジュリエッタ・シミオナートはカラヤンの音楽仲間でも中心的存在であり、このレクイエムの演奏からもそれが窺える。1957年から59年の間、彼女は「ファルスタッフ」でクイックリー夫人、「ドン・カルロ」でエボリ公女、そして1948年にオスカー・フリッツ・シューとカラヤンが組んで大成功を収めたグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」のリバイバル上演でオルフェオを演じている。1962年には、カラヤンの演劇的には陰鬱だが声楽的には壮麗な「トロヴァトーレ」でアズチェーナも演じている。
シミオナートのアズチェーナに対し、レオノーラはレオンタイン・プライス(1927年生まれ)で、二人はトロヴァトーレの役でもレクイエムでも絶妙なコンビを見せている。カラヤンが若きレオンタイン・プライスに出会ったのは1956年ニューヨークでのこと、この時カラヤンはプライスを「未来のアーティスト」と絶賛し、プライスのピアニストを解雇しカラヤン自身がその役をかってでるほどであった。1959年にベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」でザルツブルク・デビューを果たすと、1960年7月26日、新しい祝祭大劇場のこけら落としに招待され、さらに新演出の「ドン・ジョヴァンニ」でドンナ・アンナを歌った。レーダーホーゼンをはいた地元民たちは、ザルツブルクの舞台に黒人歌手が立つというニュースをビール片手に信じられないという顔で注目した。何一つ公にはされなかったが、バーやカフェではそのようなことで“カラヤンの判断力のなさ”を議論する輩が大勢いたのだ。それでもプライスは1984年までザルツブルク音楽祭に出演をし続け、その頃にはすでに最も尊敬される名ソプラノになっていた。“音楽祭の黄金”とも称された。いかに、プライスとカラヤンは微笑んだことだろう。カラヤンは人間の声が内に秘めた力を愛していた。それゆえに、静かに歌うことのできる歌手の能力を強く称賛する傾向があった。歌詞も重要な問題で、信頼する歌手と歌詞に関して精査することも多かった。同様に重要であったのは、歌手自身の力量であり、また彼自身が率いたベルリン・
フィルのソリストの力量でもあり、それぞれを傾聴していた。こうした特性こそがヴェルディのレクイエムの精神を具現化するカラヤンならではの才能だったのであろう。1935年にケンプ博士がいった「独特な内面的没頭」とはまさにこの部分を指している。
©RichardOsborne,2013
訳:堺則恒
(Testament)

【曲目】
ヴェルディ:レクイエム
【演奏】
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
レオンタイン・プライス(S)
ジュリエッタ・シミオナート(A)
ジュゼッペ・ザンピエーリ(T)
ニコライ・ギャウロフ(B)
【録音】
1962年8月9日、ザルツブルク祝祭大劇場(モノラル)

Giuseppe Verdi: Messa da Requiem
【演奏】
Leontyne Price · Giulietta Simionato · Giuseppe Zampieri · Nicolai Ghiaurov
Herbert von Karajan
Berliner Philharmoniker
Singverein der Gesellschaft der Musikfreunde Wien
Previously unissued recording

I Requiem and Kyrie 8.16
II Sequence (Dies irae) 36.28
III Offertorio 10.00
IV Sanctus 2.58
V Agnus Dei 4.27
VI Lux aeterna 5.58
VII Libera me 13.26

名指揮者ルドルフ・ケンペが、ザルツブルク音楽祭においてベルリン・フィルと残した貴重な音源!
この当時のケンペは50歳を過ぎ、既にバイロイト音楽祭にも登場、1963年までの4年間、「ニーベルングの指輪」の指揮を行い、1961年からはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も務め、充実した時期を迎えていました。
本盤では、やはりベルリン・フィルとの共演という点が要注目ですが、名ピアニスト、マガロフとのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番の他、ハイドン、モーツァルトの交響曲が収録、全収録時間が80分超と、聴き応えアリな1枚と言えるでしょう。

1962年の夏までにルドルフ・ケンペは世界的キャリアにおける最初のピークを迎えていた。長期に渡る東ドイツにおけるワーグナー関連の経験によりついにバイロイトへの出演へと昇華した。―それまでに3度「指環」を指揮していたが解釈はワーグナーの孫による奇妙なキャスティングに妨害されていた感がある。―同時に、サー・トーマス・ビーチャムが創設したロンドンの名門オケ、ロイヤル・フィルハーモニーの音楽監督にも就任していた。さらに、ベルリン・フィルとの関係も客演をコンスタントに続けられるまでになっていた。
ケンペの(東)ベルリンでの一流オケとの活動は1955年より始まった。1954年ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが死去、暗黙に彼の後継者と目されたヘルベルト・フォン・カラヤンはベルリン・フィルとの録音をドイツ・グラモフォンで行いたいと考えだしていた。EMIのフリッツ・ガンスはベルリン・フィルと“中心的”レパートリーを録音してくれる経験豊かな指揮者を失う危機を認識していた。フルトヴェングラーが亡くなった段階で予定されていたセッションやレパートリーの一部をガンスはケンペに依頼する。ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとブラームスのドイツ・レクイエムやマーラーの「亡き子をしのぶ歌」(合唱団の予定が一日中いっぱいだったので、早朝に録音を敢行した)、ブラームスの交響曲第2番、シューマンの「春」、さらにはモーツァルトのレクイエム、ブラームスのニ短調のピアノ協奏曲を含むチクルス、序曲集、「新世界」交響曲(ケンペの得意曲だった)、ワーグナーの抜粋や(これもまたフルトヴェングラーから受け継いで)「マイスタージンガー」全曲などである。「マイスタージンガー」はケンペにとってすでに2回目の録音であった。
ベルリンの都会人ぶった楽団員たちはケンペのザクセンなまりをあざ笑うようなところがあったが、彼の音楽作りを笑うことができた団員はひとりもいなかった。リハーサルでケンペはいつも静かに語り指示的な言葉は少ないのが常であった。-ロンドンのコヴェントガーデンでもウィーンで「ローエングリン」をオールスター・キャストで演じた時もそうであった―しかしながら、必要とされる時には突然威厳のある人間に変身するのである。ベルリンの人々もガンスもスタジオ録音の際のケンペのまじめで合理的なところが好きだった。ケンペは常に自身と他の人たちの時間を効率的に使った。RPOの関係者は後に語っている。「彼はしゃべり過ぎるようなことはなかった。横柄な態度をとるところも見たことがない。いつだって言うべきことの要点を明確にする人だった。」(レイモンド・コーエン)「ケンペの秘密は質素なところにあると思う。誰かの邪魔をするようなことは決してなかった。彼の動作はいつも明確だった。」(ケヴィン・ダッフィー)「オーケストラ団員にしてみれば夢のような指揮者だった。指揮のテクニックは抜群で他では見られない。彼はオーケストラが必要としているものを完全に把握していた。」(エルガー・ハウアース)
ケンペはすでにザルツブルク音楽祭で、プフィッツナーの「パレストリーナ」のリヴァイヴァル上演で大成功を収めていた。1962年夏のベルリン・フィルとのコンサートは、スケールとしてもレパートリーとしても、バイロイトの期間の中休み的要素とロイヤル・フィルの調整期間としての意味合いがあった。(ビーチャムの死去にともない、首席奏者の入れ替えやスタイルの変化があった。ケンペはスマートな“スター指揮者”になることを嫌い、ビーチャムが行っていたような本の執筆やインタヴューでユーモアのセンス{ケンペは確かにこのセンスがあるのだが}を披露するようなことはなかった。)こうした理由を含めて考えても、ハイドンの交響曲第55番はこのコンサートのスタートに最も適した選曲であった。
ハイドンのこの作品には「校長先生」という通称がついているが、これはハイドンの残した手稿とは全く関係がないものである。それでも、この通称は19世紀の前半にはすでに使われ始めていた。ハイドン研究の音楽学者として名高いH.C.ロビンス・ランドンは、1976年~80年に上梓された5巻に渡る著書「ハイドン:年代記と作品」の中で、第2楽章における付点音符のついたリズムは校長先生の指の動きを意味するとしている。比較としての例として大部分が紛失したディヴェルティメント「恋を煩う校長先生」を挙げている。この作品でも似た付点のリズムが採用されている。ロビンス・ランドンは交響曲の第2楽章にも「厳格で、学者ぶった教師」が恋愛に悩んでいる様子が明確に表れる部分があると指摘している。この楽章の本質的なおもしろさは、今日のオリジナル楽器の演奏を聴
き慣れた耳には少々重たく感じられる(この演奏ではベルリン・フィルはかなり小さな編成をとっているにも関わらず)かも知れないが、ケンペの中には確信がある。演奏は、エキセントリックで奇抜であることを楽しむように、後半2楽章へと続いていく。当時、ビーチャムがハイドン演奏の第一人者と考えられていたためか、ケンペはRPOと頻繁にはハイドンを演奏していなかった。ウォルター・レッグが催したとあるオーディションではフィルハーモニア管と第104番を演奏したことがあった。(この時、RPOとはモーツァルトの第39番を演奏している。)しかし、この第55番を加えてもケンペのハイドン交響曲の録音は3曲にしかならない。
ニキタ・マガロフをベートーヴェンのト長調協奏曲第4番のピアニストに選出するのは、因習に囚われない自由な発想で、興味深い。卒業の際ラヴェルに「真に並外れた音楽家が生まれた!」と言わしめたこともある。このロシア生まれのピアニスト(1912–92)はプロコフィエフとも親交が深かった。シロティを師に持ち、ジュネーヴ音楽院でのマスター・クラスをディヌ・リパッティより受け継いだ。多くの有名ピアニストを輩出しており、マルタ・アルゲリッチ、イングリット・ヘブラーなどもマガロフ門下である。プロコフィエフの協奏曲演奏の第一人者であり、ショパンの録音でも名を馳せた。ロマン派のヴィルトゥオジティとして知られるマガロフが古典作品で聴けるのは稀である。
ハイドン同様、ケンペのディスコグラフィにはモーツァルト作品も比較的多くない。(テスタメントでは1956年のRPOとのスタジオ録音の第39番をリリースしている―SBT1092)演奏会のレパートリーとしてもそれほど多くは取り上げられていない。そんな中でも、この指揮者にとって非常に重要な作品であったのが、レクイエムと「魔笛」のどちらも「後期」モーツァルト作品である。(「魔笛」は別の回のザルツブルク音楽祭で大成功を収めている。)ケンペはこの2曲のスコアには多くの共通点があると述べている。交響曲第39番の静かな部分にはザラストロの理想郷における純潔が暗示されている。変ホ長調の響きがケンペのスタイルに良く合っている。
オーケストラは、今日我々が聴くモーツァルト演奏よりかなり大編成だが、響きはスリムに抑制されており、現代の主流よりずっとリズミカルであることを意識した演奏になっている。
©MikeAshman,2013
訳:堺則恒
(Testament)

【曲目】
ハイドン:交響曲第55番 変ホ長調 《学校の先生》
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58(※)
モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543
【演奏】
ルドルフ・ケンペ(指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ニキタ・マガロフ(P)(※)
【録音】
1962年8月16日、ザルツブルク、モーツァルテウム(モノラル)

 

Joseph Haydn: Symphony No.55 in E flat 20.31
Ludwig van Beethoven: Piano Concerto No.4 in G, Op.58 33.15
Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony No.39 in E flat, K.543 26.29
【演奏】
Nikita Magaloff
Rudolf Kempe
Berliner Philharmoniker
Previously unissued recording

80.32

カテゴリ : ニューリリース

掲載: 2013年09月12日 15:44

更新: 2013年11月20日 14:30